大判例

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名古屋地方裁判所 昭和45年(ワ)167号 判決

原告 宗教法人蓮教寺

右代表者代表役員 三井伯雄

右訴訟代理人弁護士 大脇保彦

右同 大脇雅子

右大脇保彦訴訟復代理人弁護士 高山光雄

右同 初鹿野正

右同 長縄薫

右大脇雅子訴訟復代理人弁護士 伊藤保信

被告 株式会社牧の池

右代表者代表取締役 浅井登

被告、選定当事者 浅井登

〈ほか二〇名〉

右各選定者については別紙選定者目録「選定者」欄記載のとおり

右訴訟代理人弁護士 原井竜一郎

右同 野島達雄

右同 田島好博

右同 大道寺徹也

右野島達雄、大道寺徹也訴訟復代理人弁護士 富田俊治

参加人 児山弘

右訴訟代理人弁護士 波多野弘

右同 片山欣司

右同 今枝孟

参加人 安田新四郎

右訴訟代理人弁護士 斉藤一好

右同 斉藤誠

右同 大島久明

主文

一  原告及び参加人らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用中被告らについて生じた分はこれを六分し、その四を原告の、その一宛を参加人らの各負担とし、原告及び参加人らについて生じた分は各自の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告の請求の趣旨

1  被告らとの間で、原告が別紙物件目録記載の各土地(以下本件各土地という)を所有することを確認する。

2  原告に対して、選定者加藤美恵子(別紙選定者目録「選定者」欄記載番号一六二、以下単に番号のみで示す)、同加藤眞人(選定者番号一六三)、同加藤眞裕美(選定者番号一六四)は、各自本件各土地について各持分八〇四分の一の別紙登記目録(一)記載の所有権保存登記の抹消登記手続を、その余の選定者らは、各自本件各土地について各持分二六八分の一の右同所有権保存登記の抹消登記手続をせよ。

3  選定者加藤春(選定者番号二七〇)は、原告に対し、本件各土地について別紙登記目録(二)記載の共有持分移転登記の抹消登記手続をせよ。

4  被告株式会社牧の池は、原告に対し、別紙物件目録記載(二)の土地(以下同土地のみの場合は本件雑種地という)について、別紙登記目録(三)記載の共有者全員持分権移転登記の抹消登記手続をせよ。

5  別紙登記目録(四)の選定者欄記載の者らは、原告に対し、それぞれ別紙物件目録記載(一)の土地(以下同土地のみの場合は牧の池という)について、同目録各選定者名欄下に記載の、受付年月日、受付番号、持分割合による各自の共有持分移転登記の抹消登記手続をせよ。

6  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  参加人児山弘の請求の趣旨

1  原告及び被告らに対する関係において、参加人児山弘が、本件各土地について一二〇〇分の二〇〇の共有持分権を有することを確認する。

2  被告らは参加人児山弘に対して、各自一原告の請求の趣旨2ないし5記載の各登記の抹消登記手続をせよ。

3  参加による訴訟費用は原告及び被告らの負担とする。

三  参加人安田新四郎の請求の趣旨

1  原告及び被告らに対する関係において、参加人安田新四郎が、本件各土地について一二〇〇分の四の共有持分権を有することを確認する。

2  被告らは参加人安田新四郎に対して、各自一原告の請求の趣旨2ないし5記載の各登記の抹消登記手続をせよ。

3  参加による訴訟費用は原告及び被告らの負担とする。

四  原告の請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

五  参加人児山弘の請求の趣旨に対する原告及び被告らの答弁

1  被告ら

(一) 参加人児山弘の請求を棄却する。

(二) 参加人児山弘の参加による訴訟費用は同人の負担とする。

2  原告

(一) 参加人児山弘の請求をいずれも棄却する。

(二) 参加人児山弘の参加による訴訟費用は同人の負担とする。

六  参加人安田新四郎の請求の趣旨に対する原告及び被告らの答弁

1  被告ら

(一) 参加人安田新四郎の請求を棄却する。

(二) 参加人安田新四郎の参加による訴訟費用は同人の負担とする。

2  原告

(一) 参加人安田新四郎の請求をいずれも棄却する。

(二) 参加人安田新四郎の参加による訴訟費用は同人の負担とする。

第二当事者の主張

一  原告の請求原因

1  原告の地位等

原告は、長徳年間(西暦九九五年ないし九九八年)の藤原道長執政当時、源頼光が尾張守に任ぜられた際の創建であり、開基は恵心僧都、当初は天台宗に属して高針山と号し、大伽藍地で寺内に誓光坊、智眼坊等の寺中寺院を有していたが、承久の乱(西暦一二一九年ないし一二二一年)に際し、兵火によって大伽藍を焼失したものの、その後、永正二年(西暦一五〇六年)に寺内に今川氏親の制札が立てられたころには再建され、永禄元年(西暦一五五八年)には天台宗から浄土真宗に改宗し、慶長年間(西暦一五九六年ないし一六一四年)には従前の高針村村外地から同村内に移転し、元和三年(西暦一六一七年)には、寺号を法雲山蓮教寺と改め、更に享保二年(西暦一七一七年)には、現在の所有地に再移転し、「諸殿移就」した。

そして、真宗に帰依した後ころから原告は、檀家の拡大、右の寺院の移転等積極的に寺院としての基盤の拡大強化に努め、その結果、次第に富裕となり、「御役所」を含め方々に金員を融通するようになる一方、土地の持高も増加して、明治初年当時には、所有地の約半分を小作人約一四〇名に小作させ、掟年貢集計二六一石五斗六升九合五勺に達する等、極めて富有な財産状態となるに至った。

なお、原告が浄土真宗に改宗したころ以降における原告の歴代住職の変遷は、次のとおりである。

(1) 蓮喜・山田佐エ門時代

(2) 蓮光(香)・元亀三年(西暦一五七二年)九月一二日死亡

(3) 蓮・永禄一一年(西暦一五六八年)三月九日死亡

(4) 蓮智・天正一五年(西暦一五八七年)一〇月三日死亡

(5) 蓮勝・元和四年(西暦一六一八年)七月一五日死亡

(6) 蓮教・寛永九年(西暦一六三二年)一月二八日死亡

(7) 蓮貞・万治二年(西暦一六五九年)一〇月二七日死亡

(8) 蓮順・寛文一二年(西暦一六七二年)九月一六日死亡

(9) 蓮秀・享保八年(西暦一七二三年)四月二三日死亡

(10) 蓮阿・明和九年(西暦一七七二年)七月二一日死亡

(11) 蓮誓・寛政一二年(西暦一八〇〇年)六月一二日死亡

(12) 蓮浄・文化五年(西暦一八〇八年)一二月一四日死亡

(13) 蓮門・天保五年(西暦一八三四年)五月一一日死亡

(14) 蓮游・文久元年(西暦一八六一年)六月二七日死亡

(15) 蓮憙・明治五年(西暦一八七二年)二月から大正七年二月一三日

(16) 淳弁・大正一四年四月一四日から昭和二一年一〇月三〇日

(17) 雄淳・昭和二一年一一月一日以降

2  牧の池の築造

(一) 牧の池は正保三年(西暦一六四六年)当時湧水の出る悪泉と称する土地であったが、同年春に現在の高針野付近、特に字牧、同前田、同北島、同原、同西山の五つの字に属する田畑に灌漑用水を恒常的に供給する目的で、尾張藩の代官勝野太郎左衛門によって築造された。

また、本件雑種地はもと山林であり、牧の池の北端に隣接し、牧の池の堤防護岸工事等に要する採土用の土地として、牧の池に付属され、これと一体をなすものである。

(二) 牧の池の敷地の提供者は原告である。即ち、

(1) 牧の池が築造された当時原告の住職は第七代の蓮貞と第八代の蓮順であって、「法雲山伝来略縁記」によれば、蓮順について、嶋田村の諸檀家が帰依しているほか、「大功有」と述べられているから、同人は特別に寺又は村に寄与した功労があったことをうかがわせ、また原告が、正徳六年(一七一六年)に牧の池に近い所から現在の所在地に移転しているところからすると、牧の池築造当時原告は相当に経済力を有し、牧の池の敷地一帯及びその灌漑用水を受ける田畑を寺有地としていた。

(2) 牧の池の敷地は、九三石一斗四升六合の石高を有していたが、「証文引」(免税地)とされている記録があるので、その敷地はかつて「高請地」(課税地)で耕地であったことが明らかであり、しかも、高請地の所持者は本百姓(地主)であり、水呑百姓(小作人)ではなかった。そして、これを池敷にして潰地にしてしまうことは、農家の経営規模を縮少し、石高を減らすことになるため、耕地を池敷に提供させる場合には、村民に対して強制移転のための立退料や代替地の提供などの補償を与えるのが常であった。ところが、牧の池に関しては村などの古文書には、こうした記録が一切ないから、牧の池の池敷の提供者は耕地を池敷に提供しても影響の少ない大地主であったことを意味し、とりわけ、高針村は大地主と水呑百姓の貧富の差が大きく、高針村の村祭が「ひえ祭り」と近隣に呼ばれている状況からもわかるように農民は貧困であって、池敷に対する村民の寄与は全くなかったと解される。

そして、牧の池の右石高九三石一斗四升六合はほぼ八世帯五〇人分の耕地に相当するが、原告一人が全て提供したとしても当時の大地主の所有地としてはそれほどの広さではなく、特に寺は衆生済度を目的とし、溜池の築造によって村民の信頼を得て、土地の灌漑の権利を取得して村を支配することは、寺の社会的経済的地位の向上につながるから、原告が池の敷地を提供したことは当然のことであった。しかし、牧の池の規模からして、大地主であっても山田家個人の立場ではこれを代官と協力して築造することは不可能であった。

(3) 原告はその築造後牧の池を村方に貸与し、明治五年ころまで村の庄屋から毎年掟米(年貢)を受取っていたが、明治元年当時の年貢収納記録によると、牧の池の敷地となっていた悪泉について、原告が村方より六斗五升(代銭三円一三銭四厘)の年貢を受取り、「村入用」と相殺していたことが記載されており、とりわけ、明治元年は「田の惣引二割半、水損料不同畑五割引」という不作の年であり、また平年においても収穫の少ない悪泉と称する土地であったから、明治元年の右土地の年貢は更に少なかったと推測されるので、右年貢に相当する土地はかなり広大であった。

3  牧の池の管理

(一) 牧の池は公儀によって修復された記録があるが、それは農業用水の維持管理が基本的に本百姓(地主)の責務と考えられていたからに他ならない。しかし、牧の池自体に関して、「池守」又は「池守給」について記載した文書が一切なく、このことはその管理が代官や村、村民の共同管理ではなかったことを示している。そして、原告は、明治、大正年間において、牧の池から送水される前記字牧ら五つの字の寺有地の用水の管理のため、「杁」という役職を設け、牧の池の灌漑用水の運用を監視し、右「杁」は作人から選任されたが、牧の池の水の使用には原告の承諾を必要としていたため、「杁」が作人を代表して原告と折衝した。

(二) 牧の池の用水について、水利組合が結成されたのは原告が没落し、原告方に具体的管理権者がいなくなった昭和七年ころからであり、このように牧の池の水利組合の結成が、他の池に比べて時代的に遅いのは、原告のみが牧の池の管理権を有していたことによるのである。

4  牧の池の所有名義

(一) 明治初年の地租改正に際して、当時原告の住職であった山田蓮憙は、原告の寺有地を「共有惣代山田蓮憙」名義で届け出ており、牧の池敷地についても明治一一年右の名義で地券が発行され、後に土地台帳にその旨が記載された。

右のように共有惣代名義で届出がされた原因は、明治維新における政治的な変革に伴い、頻りに行われていた廃仏棄釈の風潮から、寺院関係者が寺社上知令に基づき、政府により寺院が廃止され寺有財産が官没されると誤解し、これを免れるために寺院所有物を住職個人の所有の如く装ったためであり、そして、このように、寺社上知令に対する誤解から寺有財産が個人持や村持に仮装した例は他に多くみられるのであるから、牧の池の地券に「共有惣代」の名義が記載されていても原告の所有であることの妨げにはならない。

(二) ところで、当時の「共有」という言葉のもつ法的意味は私有と対比した概念であったし、寺について、まだ法人の概念は明確にされておらず、登記の方法もなかった(法人登記の創設は明治一九年)。そして、このことは寺の所有を「共有」または「共立」と表し、寺有であることが最も明白な墓地についても寺の「共有」と表示されていることから明らかであり、更に、墓地の中には寺有であっても、地券の上で「共有惣代」と表示されているものもある。

(三) 明治八年の地券には「一村総持」という表示のあるものもあり、水利利用者が所有者であればこうした表示が適切であるし、他の溜池の地券には、「共有惣代」の名義が見られるが、それは特定の個人の集合としての溜池の地盤所有者の意味と解され、水利権者を意味しない。もし、牧の池が村民の共有地であるならば、当然名寄帳のごときものが存在するはずであるのに存在せず、特に、原告は寺有地を持ち、水利を利用していたにもかかわらず、共有者の中に加わっていないことは理解できない。

5  被告らの登記の存在

(一) 訴外山田かづは、山田蓮憙(大正七年二月一三日死亡)の孫である亡山田睿こと山田三十四(昭和二八年死亡)の妻であり、訴外山田修は、その養子であるが、本件各土地が原告の所有であり山田蓮憙の個人所有でないことを知悉しながら、いずれも蓮憙の相続権者であることを奇貨とし、これを自己名義で他に転売しようと企て、昭和三六年一〇月末ころ、訴外亡加藤慶治に対し、訴外桜井鋼一を介して本件各土地の名義変更のための証人となることを依頼し、名義変更は当然であると早計した右加藤慶治から証人となることの承諾を得、更に訴外加藤彦太郎からも同様の承諾を得たうえ、右加藤慶治及び右加藤彦太郎から印鑑証明書及び白紙委任状の交付を受け、これを使用して、昭和三六年一一月二七日、愛知中村簡易裁判所において、牧の池につき右山田かづ、山田修、加藤彦太郎及び加藤慶治が各四分の一の共有持分を有する旨の即決和解調書を作成させ、同月二九日、同調書に基づき、本件各土地について右四名の各四分の一の持分の共有保存登記をなし、更に、同年一二月一日、右加藤慶治、加藤彦太郎及び山田修が右各共有持分を放棄し、これを全部山田かづに移転する旨の所有権持分移転登記手続を了した。

そして、山田かづは、昭和三七年三月二六日、本件各土地を訴外濃飛開発株式会社、同今井鋭二、同藤枝要の三名に売渡し、各三分の一の持分を有する旨の所有権移転登記手続を了した。

従って、右の和解調書は、真実に合致しない無効のものであり、これに基づいて経由された右各登記も、いずれも無効のものであり、真実の権利関係に合致しないものである。

(二) そこで、原告は、昭和三七年一〇月八日、右山田かづ、山田修、加藤慶治、加藤彦太郎、藤枝要、今井鋭二、濃飛開発株式会社を被告として土地所有権持分移転登記及び抹消手続並びに所有権確認等請求の訴(当庁昭和三七年(ワ)第二八三三号)を提起するとともに本件各土地につき予告登記がなされたが、昭和三八年一月二六日、藤枝要及び今井鋭二は、濃飛開発株式会社に対し各持分一二分の一を、訴外松尾木材工業株式会社に対し各持分一二分の三を譲渡する旨の移転登記手続を了した。

他方、被告宮島照、同浅井登、同加藤金治、同加藤文男、亡山田菊太郎、亡中村彦四郎は、昭和三六年一二月九日受付第四〇四〇一号をもって、本件各土地につき、譲渡、質権、抵当権の設定その他一切の処分禁止の仮処分をなし、次いで、選定者ら一六名は、右山田かづ、山田修、加藤慶治、加藤彦太郎、藤枝要、今井鋭二、濃飛開発株式会社に対し、所有権持分移転登記等抹消登記手続請求の訴(当庁昭和三七年(ワ)第一〇七一号)を提起した。

(三) ところが、昭和四三年三、四月ころ、山田かづ及び山田修と濃飛開発株式会社との間で分裂が生じ、その結果、山田かづ及び山田修は、前記当庁昭和三七年(ワ)第一〇七一号事件につき、代理人を解任するとともに、請求の認諾書を提出し、続いて、山田かづ及び山田修は、亡山田菊太郎と謀って、昭和四四年六月四日、津簡易裁判所において、別紙和解当事者目録「和解当事者」欄記載の者との間で、本件各土地についての前記藤枝要、今井鋭二及び濃飛開発株式会社に対する所有権持分移転登記の抹消登記手続をし、右「和解当事者」欄記載の者が本件各土地の共有持分(加藤美恵子、加藤眞人、加藤眞裕美がそれぞれ八〇四分の一、その余の和解当事者がそれぞれ二六八分の一の共有持分)を有することを確認する旨の和解を成立させた。

(四) そして、右和解当事者らは、昭和四四年一〇月九日、本件各土地につき、右の和解調書に基づき所有権保存登記手続をなし(別紙登記目録(一)記載の登記)、次いで、右和解当事者のうち加藤英休(右和解当事者目録頭番号二七〇の者)の本件各土地の共有持分については、相続を原因として昭和四四年一二月九日、選定者加藤春のために持分全部の移転登記手続がなされ(別紙登記目録(二)記載の登記)、また、本件各土地の右共有名義人らは、昭和四四年一二月一六日、被告浅井登ら設立にかかる被告株式会社牧の池に対して本件雑種地の共有持分全部を贈与する旨の所有権移転登記手続をなし(別紙登記目録(三)記載の登記)、更にその後、右和解当事者のうち、承継が生じた者について、牧の池の共有持分移転登記手続がなされた(別紙登記目録(四)の登記)。

6  確認の利益

以上のとおり本件各土地は原告の所有するものであるが、被告らのため別紙登記目録記載の登記が経由されており、被告らは原告が右各土地を所有していることを争っている。

7  よって原告は、本件各土地が原告の所有であることの確認を求めるとともに、その所有権に基づき、被告らに対して、別紙登記目録記載の各登記の抹消登記手続を求める。

二  参加人児山の請求原因

1  山田家の地位

(一) 原告の請求原因1と同旨

(二) 天台宗は妻帯を許さず、住職の一族が増加することはあり得ないが、浄土真宗高田派は肉食妻帯を公然と許すところから、原告が同宗同派に改宗した永禄四年(西暦一五六一年)から牧の池築造(正保三年・西暦一六四六年)までの八五年間には、原告の住職山田家を筆頭とする山田家は、高針村の豪農として成長し、天正年間(西暦一五七三年ないし一五八四年)に原告住職蓮勝の弟大鐘藤八が、老境に至り蓮教寺控として白山祠を設立している。

また、明治以前において、寺領地と寺院の住職個人の高請地とが明確に区別されており、高田派においては、住職個人が寺院財産を私有する例が多かったものであるところ、「尾張徇行記」や「高田宗御本坊御末寺由緒書」によれば、原告が境内などわずかな土地のほかは田畑などを寺領地として持たなかったことが明らかである。

2  牧の池の築造

(一) 一原告の請求原因2(一)と同旨

(二) 牧の池の敷地提供者は山田家の祖先である。即ち、

(1) 原告が、前記のとおり浄土真宗高田派に改宗したころは尾張藩では新田開発の最盛期で、高針村でも比較的広い面積の「牧」という草地の開発が進行し、そのころ、同寺の住職家山田一族は次第に増加したが、同寺は領知権を伴う寺領を持たず、檀徒は貧困な百姓で寄付金も少なかったため、自ら、高持百姓として新田開発をしなければ生活ができなかったが、右の「牧」は保水性が悪く、灌漑用水も不足していたため、水利を確保する必要があった。

(2) ところで、牧の池築造による水没地は、「徇行記」に記載のある田畑八町五反六畝二七歩の他、耕地以外の土地一四町五反三畝二六歩の合計二三町一反二三歩と推定されるが、この耕地以外の土地は、「牧の池」の名称等から草地または小さな池のある地目と推定され、高針村内の百姓らの管理する土地でないことは確かである。そして、寛文一三年(西暦一六二七年)の「覚書」によると、田畑八町五反六畝二七歩は、約八世帯五〇人(一世帯当り一町六畝九歩、六・二人)に相当する耕作地であって、仮りにこの約五〇名に及ぶ田畑耕作者が牧の池築造に伴い他所への移動を強要されたとするとその旨が尾張藩の記録に残っているはずであるが、このような記録が残っていないこと等からすると、この程度の田畑が水没しても生活に困らない豪農が右田畑を耕作していたものと考えられ、これらの諸事情からすると、牧の池敷地は、いずれも豪農である山田家の耕作、採草等に供した土地であるとする以外にない。

(3) 山田家はその後自用地以外の土地を他に使用収益させ、対価を得ていたが、明治元年当時の年貢収納記録(甲第一六号証)によれば、その当時牧の池敷地の年貢収納権を有していたことが確かであって、このことは明治元年当時、村方即ち村落共同体及びその構成員は山田家を牧の池敷地の所有者と評価し処遇していたことを示す。

3  牧の池の管理

(一) 牧の池は公儀によって修復された記録があるが、それは農業用水の維持管理が基本的に領主の責務と考えられていたことからに他ならない。従って、牧の池に関する修理工事の記録があっても、牧の池が代官所や村、村民の共同管理にあったとすることはできない。

(二) しかし、牧の池の池水の管理については、その築造の目的が高持百姓である山田家もしくはこれを含むごく数人の土地への灌漑用水の供給にあったから、牧の池については池水の管理者への「池守給」は与えられておらず、池敷の提供者である山田家が、事実上池守となって牧の池の池水の管理を行った。

4  牧の池の所有名義

(一) 地租改正に際しての調査結果を記載した明治六年七月の「高針村地価仕出帳」(乙第三六号証)には牧の池の敷地の所有者として山田蓮憙と記載されている。

右仕出帳には「村持名代山田蓮憙」と記載されているが、この「村持名代」との文言は、牧の池の水が高針村の農民らに利用されていたという利用形態に着目して冠せられたものであって、高針村の所有を意味するものではない。

(二) そして、その後牧の池敷地についても明治一一年当時、「共有惣代山田蓮憙」名義で地券が発行され、後に土地台帳にその旨が記載されたが、右地券の表示する「共有」は、山田家の当主である山田蓮憙の単独所有を意味し、同人とその余の者との共有を意味するものではない。高針村には田畑を所有している戸とそうでない戸があり、また田畑を所有しない戸であっても田畑を小作する戸とそうでない戸があって、池水の利用に関する利害には相違があるので、牧の池の利用については村落全戸に共通の利害があるのではないから、一村の総持と考えることが困難である。

(三) そして、牧の池の築造所有、原告の寺院としての活動によるものではなく、高持百姓としての住職個人の活動によるものであって、しかも明治以前から寺院所有地と住職所有地とは判然と区別されていたのだから、右いずれの名義も原告所有を意味するのではなく、原告住職山田蓮憙所有を意味していた。

(四) 山田蓮憙は、大正七年二月一三日死亡し、同人の孫である山田三十四が本件物件の所有権を家督相続し、山田三十四は、昭和二八年五月四日死亡し、同人の妻山田かづ及び養子山田修が本件各土地の所有権を相続した。

5  参加人児山の共有持分の取得

(一) 昭和三六年一一月二〇日、山田かづ及び山田修は、次の約定で、本件各土地の所有権を濃飛開発株式会社に売り渡した。

(1) (売買代金)

合計金二、五〇〇万円

(2) (支払方法)

昭和三六年一一月二〇日(契約締結日)内金三〇〇万円を支払い、同年一二月一〇日、完全な所有権移転登記と引換に残金二、二〇〇万円を支払う。

(二) 昭和三七年三月二四日、濃飛開発株式会社は、今井鋭二及び藤枝要に対し、本件各土地の共有持分各三分の一ずつを売渡した。

(三) 昭和三七年一二月一〇日、今井鋭二及び藤枝要は、濃飛開発株式会社に対し、本件各土地の共有持分のうち各一二分の一ずつを売り渡した。

(四) 同月同日、今井鋭二及び藤枝要は、松尾木材工業株式会社に対し、本件各土地の共有持分のうち一二分の三ずつを売り渡した。

(五) 昭和三九年七月三一日、松尾木材工業株式会社は、亡大前嘉一郎に対し、本件各土地の共有持分のうち一二分の六を売り渡した。

(六) 昭和三九年七月三一日、濃飛開発株式会社は、訴外八坂観光株式会社に対し、本件各土地の共有持分一二分の六のうち一二分の二ずつを売り渡した。

(七) 同月同日、大前嘉一郎は、八坂観光株式会社に対し、本件各土地の共有持分一二分の六のうち一二分の二ずつを売り渡した。

(八) 昭和四一年八月二九日、八坂観光株式会社は、訴外合名会社かすが観光に対し、本件各土地の共有持分一二分の四のうち一二分の二ずつを売り渡した。

(九) 昭和五八年九月二八日、合名会社かすが観光は、訴外中井新二に対し、本件各土地の共有持分一二分の二ずつを売り渡した。

(一〇) 昭和五九年二月六日、中井新二は、参加人児山に対し、本件各土地の共有持分一二分の二ずつを売り渡した。

6  被告らの登記の存在及び確認の利益

以上のとおり本件各土地について前記一5(四)記載のとおり、別紙和解当事者目録ないし選定者目録記載の者のため別紙登記目録記載の登記が経由されており、また原告及び被告らは参加人児山が本件各土地の一二〇〇分の二〇〇の共有持分を有していることを争っている。

7  よって参加人児山は、本件各土地について一二〇〇分の二〇〇の共有持分権を有することの確認を求めるとともに、右共有持分権に基づき被告らに対して、別紙登記目録記載の各登記の各抹消登記手続を求める。

三  参加人安田の請求原因

1  参加人児山の請求原因1ないし5の(一)(二)(三)と同旨

2  参加人安田の共有持分の取得

(一) 昭和三七年一一月一三日、濃飛開発株式会社は、東山レジャーセンター株式会社に対し、本件各土地の共有持分のうち各三〇〇分の一ずつを売渡した。

(二) 昭和四一年一〇月二〇日、東山レジャーセンター株式会社は、参加人安田に対し、本件各土地の共有持分のうち各三〇〇分の一ずつを売渡した。

3  被告らの登記の存在及び確認の利益

以上のとおり本件各土地について前記一5(四)記載のとおり、別紙和解当事者目録ないし選定者目録記載の者のため別紙登記目録記載の登記が経由されており、また、原告及び被告らは参加人児山が本件各土地の一二〇〇分の四の共有持分を有していることを争っている。

4  よって参加人安田は、本件各土地について一二〇〇分の四の共有持分権を有することの確認を求めるとともに、右共有持分権に基づき被告らに対して、別紙登記目録記載の各登記の各抹消登記手続を求める。

四  原告及び参加人らの請求原因に対する被告らの答弁

1  原告の請求原因に対する答弁

(一) 請求原因1のうち、原告が浄土真宗に改宗した年月、寺号を法雲山蓮教寺と改めた年月、現在地に移転した年月、享保二年に「諸殿移就」したこと、真宗に帰依した後ころから檀家の拡大、寺院の拡大強化に努め、その結果、次第に富裕となったことは否認し、その余は認める。

(二) 同2については(一)のうち、牧の池の築造された時期、牧の池敷地が悪泉と称されていたことは否認し、その余は認める。同(二)は否認する。

牧の池の敷地の提供者は原告ではない。牧の池築造時、原告は見るべき資産を何ら有しておらず、牧の池敷地一帯の土地を田畑とし所有していたことはありえない。また「悪泉」を有していた者に対して村が年貢を納めていた例は他にも見られるし、六斗五升の年貢米に相当する土地は、僅か七畝(二一〇坪)程度で到底牧の池敷地の所持を証明することにならない。

(三) 同3のうち牧の池がかつて公儀により修復された記録があることは認めるが、その余の事実は否認する。公儀による修理は例外的なことであり、平常の維持管理は全て村方、田子らの負担において行われていた。「田子」は溜池より水利を得ている水田の所有者を意味し、田子総代による牧の池の管理の実態は、江戸時代から続いており、その後昭和四五年ころ牧の池から水利を得る田畑が消滅するまで変わらなかった。

(四) 同4のうち牧の池敷地について「共有惣代山田蓮憙」名義で地券が発行され、土地台帳に記載されたことは認めるが、その余は否認する。

(五) 同5については(一)(二)(四)及び(三)のうち山田かづらが代理人を解任し、認諾書を提出したこと、原告主張の和解が成立したことはいずれも認めるが、その余は否認する。

(六) 同6は認める。

2  参加人児山の請求原因に対する答弁

(一) 請求原因1については(一)は前記1(一)(原告の請求原因1に対する認否)と同旨、同(二)は否認する。

(二) 同2については(一)は前記1(二)(原告の請求原因2(一)に対する認否)と同旨、同(二)は否認する。牧の池の敷地について伝承の資料が何もないことは山田家等の個人所持地でないことを示しているし、明治元年当時牧の池はその田子らが支配進退していた。

(三) 同3は否認する。牧の池の管理は例外的に公儀により大修理が行われたことはあるが、平常の維持管理は全て村方、田子らの負担において行われていた。

(四) 同4のうち明治一一年牧の池敷地について「共有惣代山田蓮憙」の名義で地券が発行され、その旨土地台帳に記載されたことは認めるが、その余は否認する。

(五) 同5はいずれも否認する。

(六) 同6は認める。

3  参加人安田の請求原因に対する答弁

(一) 請求原因1については前記2(一)ないし(五)(参加人児山の請求原因に対する認否(一)ないし(五))と同旨。

(二) 同2は否認する。

(三) 同3は認める。

五  参加人らの請求原因に対する原告の答弁

1  参加人児山の請求原因に対する答弁

(一) 請求原因1のうち牧の池築造時までに原告住職家が大豪族に成長していたことは認めるが、その余は否認する。尾張藩や高田派本山専修寺の記録には、田畑が寺領地として記載されていないが、これらの記録が正確性を欠き、また、寺領地についての寺の本山への報告は上納金算定の基礎とされたりするので、報告の内容は原則として境内地と建物に限定されていた。

(二) 同2については(一)は認めるが、(二)は否認する。

(三) 同3については(一)は認めるが(二)は否認する。

(四) 同4のうち明治一一年牧の池敷地について「共有惣代山田蓮憙」の名義で地券が発行され、その旨土地台帳に記載されたことは認めるが、その余は否認する。

(五) 同5は否認する。

(六) 同6は認める。

2  参加人安田の請求原因に対する答弁

(一) 請求原因1については前記1の(一)ないし(五)(参加人児山の請求原因1ないし5に対する認否)と同旨。

(二) 同2は否認する。

(三) 同3は認める。

六  被告らの主張

1  原告及び山田家の規模

(一) 原告は、真宗高田派に改宗した永禄四年(西暦一五六一年)ころには現在の所在地に存在せず、現在の所在地に移転したのは約一五〇年後の享保元年(西暦一七一六年)ころのことである。

(二) ところで、原告は、元禄元年(西暦一六八八年)五月当時においては、礼拝用建物、金蔵、田畑等を有せず、檀家信徒も困窮の状態にあって、寄捨金品も少額に過ぎない一小寺院であった。原告が祠堂資源として幾許かの資産を有するようになったのは、前記享保元年ころに現在地に移転した後からであり、その後の住職の蓄財努力によって次第に所持田畑を集積し、田子の一員として牧の池に関与する資格を取得するに至ったのであるから、原告が田子たる資格を取得した時期は、早くとも正徳年間を遡り得ないのである。

(三) また、原告が寺院として必要な礼拝施設を建立した時期を見ると、本堂、庫裡は、宝歴六年(西暦一七五六年)完成・但し、建築願出は宝歴一三年(西暦一七六三年)書院は寛政九年(西暦一七九七年)までに建築、玄関は、寛政二年(西暦一七九〇年)建築、土蔵は、寛政三年(西歴一七九一年)ころ取得、物置は、享保二年(西暦一八〇二年)建築であるから、原告が宗教施設としての体裁をようやく整えたのは、早くとも、本堂竣工の宝歴六年を遡りえないのである。そして、それは、牧の池築造から約一〇〇年後のことであるから、牧の池築造当時、原告または山田家が本件各土地を所持していたとは考えられない。

2  牧の池の築造

(一) 牧の池築造前の高針村は、石高約一、六〇〇石の部落であって、尾張藩の所領に属し、同藩の代官勝野太郎左衛門により統治されていたのであるが、当時は、用水施設が殆んどないような状況であったため、夏期のわずかな日照りによっても稲作に壊滅的な打撃を受け、農民は稲作をあきらめて粟を栽培し、これを主食としなければならない状態であった。代官勝野は、高針村の農民のこの窮状を打開し、周辺の水田の灌漑用水の確保とその利水による稲作面積の拡大と増産を図ろうとして、丘陵の中腹に位置し、配水に便で既に二つの小池が存在していた牧田地区に大灌漑用水池を構築することとし、尾張藩に牧の池の御普請願いをして、その許可を受けた。

(二) 牧の池は、寛永一九年(西暦一六四二年)、代官勝野の指揮の下、付近の農民延数千人が従事して構築されたものであるが、工事費用は周辺農民の労力提供と尾張藩の負担によって賄われ、工事内容は、東西約一三四間、高さ五間、根敷(堤の斜面)の長さ二九間、馬踏(堤の上辺の幅)三間半、周囲二八町、面積二万五、六九二坪の規模を有する堤の築堤、十数余里に及ぶ用水路、非常用排水路の構築及び杁(水量調節設備)の布設であって、築造工事には四年の歳月を要し、正保三年(西暦一六四六年)に完成した。

(三) 牧の池築造以前の牧の池敷地一帯の土地権利関係の沿革については、現在全く不明であるが、牧の池ほどの大きな人工池の敷地が個人や寺の土地であったとすれば、その水没の伝承や溜池の維持管理の歴史があるはずなのに、これがないのは一個人や一寺の個人持でなかったことを示している。

(四) しかし、牧の池築造により水没した農地は潰地とされ、同地に対する年貢九三余石は、尾張藩主徳川光友によって証文引によって免ぜられた記録(寛文村々覚書)があり、右記録は池敷がもと人民所持の高請地であったことを示している。

3  牧の池の管理

(一) 牧の池敷地は、水没前、農民の高請地であったが、完成後、牧の池は、尾張藩郡奉行勝野太郎左衛門の公的管理の下に、その後、天明元年(西暦一七八一年)からは、東春日井郡所在の水野代官所の公的管理の下に置かれ、文化六年(西暦一八〇九年)、天保八年(西暦一八三七年)、嘉永六年(西暦一八五三年)、安政二年(西暦一八五五年)及び文久三年(西暦一八六三年)の牧の池の改修工事等は、いずれも水野代官所の命令の下に実施された。

(二) しかし、以上の如き公儀修復は例外的大修理であって、牧の池の平常の維持、管理、修復は全て高針村の村方、牧の池田子(牧の池の水利を受ける水田を有する高持百姓)の労力の提供、費用負担で行われていたのであって、このことは、村方の帳簿類にも記載されている。

その反面として、牧の池の水利権は、田子が有しており、明治以前は百姓寄合においてその大綱が決定せられていたが、実際には所謂大地主の協議体である田子総代がその決定をし、田子総代によって選任された杁守が田子総代より報酬を得て水弁の調節等実際の作業にあたっていた。右杁守に対する報酬は田子より反別割によって、集められた米によって支払われていた。山田蓮憙または蓮教寺はせいぜいこうした田子の一員であったにすぎない。

そして、尾張藩は次第に水利施設物及び池敷の公的管理権を放棄し、公儀修復も形骸化して、幕末時には実質的には牧の池及びその敷地を田子が支配進退(所持)するようになって明治維新を迎えたのである。

(三) 明治以後の牧の池の管理のうち大規模工事については、その一切の費用を田子が負担してきた。このことは、昭和七年ころ、田子らが申合せによって牧の池水利組合との名称を用いるようになって以後及び昭和二二年ころに水利組合法により牧の池水利組合が設立された後においても同様であり、昭和一二年の樋管工事、同一七年の水路工事は組合の全額費用負担で、同二二年の樋管工事は、水利組合員所有反別割当(労働金は各戸平等三〇〇円割当)の費用負担で、同二九年の樋管工事は費用組合員全額負担でそれぞれ行なわれ、また、牧の池についての公共機関との交渉は常に右水利組合が担当し、昭和二六年の愛知県緑地境界立会調査も同組合と愛知県との間で行なわれたのである。

4  牧の池の所有名義

(一) 明治政府は、土地に対する税制を改革するにあたり、江戸時代から存在していた土地に対する従前の複雑な支配関係を整理し、土地に対する権利として所有権だけを認め(一物一権主義)、改租担当官が地租改正の手続過程において従来の土地支配の実績に即して所有権を確定し、地券の交付によって、当該土地の所有権者が創設された。

(二) そして、牧の池の田子が前記のように本件各土地の所持を有していたから本件各土地について明治九年六月の地引帳、同年七月の地租改正地価取調帳、同年九月の地位詮評帳に「共有惣代」との肩書が使用され、また、この肩書で改正地券が交付され、土地台帳の登録が行なわれたのである。

(三) 右の地券交付に際し、共有惣代として山田蓮憙の名があるのは、当時、同人が高針村の筆頭大地主であったため、田子の代表者の一人であったこと及び山田蓮憙の原告の住職としての社会的地位の重さから、高針村の田子の代表者として記載されたに過ぎず、山田蓮憙個人または原告の所有を示すものではあり得ない。このことは、地租改正以後、多人数で山林溜池等を所有する場合、「共有惣代」の肩書を用いて代表者単独名義にすることがしばしば行なわれ、高針村の他の池も「共有惣代」の肩書により地券が交付され、田子の共有とされ、田子により支配されてきたことから明らかである。

(四) 以上のとおり、本件各土地について土地所有者を「共有惣代山田蓮憙」と表示して地券が交付されたことは、当該溜池の水利を受ける者を共有者、その代表者を惣代としてこれに所有権が付与されたことを意味する。

5  被告らの共有権

(一) 牧の池の水利を受ける田畑の所有権を失うことにより、牧の池田子の地位を失い、他方右水田を取得することにより牧の池田子の構成員となる慣行で、牧の池田子の地位たる権利は居住者一戸につき一個であった。

そうして、その所有権の形態は総有であって、こうした法律関係は、昭和四六年ころ牧の池から水利を受ける田畑が消滅するまで続いた。

(二) そして、昭和四〇年一月一日現在牧の池の水利を受ける田畑を所有している者を本件各土地の総有構成員資格の基準とし、これによって牧の池の総有構成員を確定し、原告主張の経過により本件各土地に被告らのために各登記がなされた(前記一5の(一)ないし(四))。

(三) 以上のとおり、本件雑種地は、被告株式会社の所有するものであり、牧の池はその余の被告ら及び選定者らの共有するものであって、原告が所有することも参加人らが共有持分を有することもない。

七  参加人らに対する被告らの抗弁

1  共有権喪失

(一) 山田蓮憙は、本件各土地の共有者であったが、その孫である山田睿こと山田三十四は、昭和一四年以前に、牧の池から水利を受けている水田を含むすべての田畑及び山林を売却し尽くした。

ところで、牧の池田子は、牧の池から水利を受けている水田の所有権を失うことにより、田子たる地位も失う結果、本件各土地に対する共有権をも失う慣行が行なわれてきた。

従って、山田三十四は、田畑等を売却し尽くしたことによって田子たる地位を失うとともに、本件各土地に対する共有権も失ったのであるから、同人の相続人である山田かづ及び山田修が本件各土地の共有権を山田三十四から相続することはない。

(二) 仮に、右の主張が失当であるとしても、山田三十四は、高針村を離れて名古屋市に居住していたが、昭和一四年三月一五日ころ、わずかに残っていた牧の池の共有持分権を、代金三〇円で被告らに売り渡した。

従って、山田かづ及び山田修は、本件各土地の共有者ではない。

2  契約解除

仮に、山田かづ及び山田修が濃飛開発に対して本件各土地の共有持分を売り渡したものであるとしても、山田かづらは、昭和三六年一一月二〇日、濃飛開発の代表者に対し、登記手続等に必要な白紙委任状、印鑑証明等を交付し、もって、売主としてすべき義務をすべて履行したにも拘わらず、濃飛開発が代金の内金三五〇万円を支払ったのみで残代金の支払をしないため、昭和四二年九月一四日付内容証明郵便をもって、右残額金一、八五〇万円を同月二四日限り支払うよう催告し、同期日までに支払われないときは売買契約を解除する旨の停止期限付解除の意思表示をなし、同郵便は、同月一五日、濃飛開発に到達したが、濃飛開発が右期限までに右残額の支払をしなかったので、山田かづらと濃飛開発との間の売買契約は、右期限の経過とともに解除された。なお、念のため、山田かづらは、昭和四二年一二月一二日付内容証明郵便をもって売買契約解除の意思表示をなし、同郵便は、同月一三日、濃飛開発に到達した。

従って、濃飛開発が本件各土地の共有持分権を取得することはないから、その後者である参加人らが持分権を取得することもない。

八  被告らの抗弁に対する参加人らの答弁

1  抗弁1は、いずれも争う。

2  抗弁2のうち、被告ら主張の各意思表示があったことは認めるが、契約解除の効力は争う。

山田かづらの昭和四二年九月一五日の催告は、売主として給付すべき本件各土地の引渡の提供がなく、かつ、本件各土地については、原因昭和三六年一二月九日名古屋地方裁判所仮処分とする処分禁止仮処分の登記が付着していたのであるから、濃飛開発に対する完全な登記移転がなされたとは言えず、従って、山田かづらのなすべき反対給付の提供を欠き、催告としての効力を生じない。従って、被告らの主張の契約解除もその効力を生じない。

第三証拠関係《省略》

理由

第一  当事者の地位及び本件各土地の概要

一  原告及び住職山田家について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(一)  原告は、長徳年間(西暦九九五年ないし九九八年)の藤原道長執政当時、源頼光が尾張守に任ぜられた際の創建であり、開基は恵心僧都、当初天台宗に属して高針山と号し、大伽藍地で寺内に誓光坊、智根坊等の寺中寺院を有していたが、承久の乱(西暦一二二一年)の兵火によって大伽藍を焼失し、その後、永正二年(西暦一五〇六年)寺内に今川氏親の制札が立てられたころには再建され、永禄年間(西暦一五五八年ないし一五六九年)浄土真宗高田派に改宗し、寺号を蓮教寺と改めた。

(二)  原告は以前には現在地より一町(約一一〇メートル)ほど東南の高針村村外地にあったが、慶長年間(西暦一五九六年ないし一六一四年)のころ、右地より二町(約二二〇メートル)ほど西南の高針村内へ移転したが、湿地のため正徳六年(西暦一七一六年)現在地へ再移転した。そして、かつては、「光かがやく蓮教寺」と称され裕福な寺院であった時期もあったが、大正年間に原告の住職家の訴外山田三十四が、事業に失敗して財産を失ってからは没落した。

(三)  原告が浄土真宗高田派に改宗したころからの歴代の住職は原告主張のとおりであるが(原告の請求原因1原告の地位等に記載)、第一五代住職山田蓮憙は、大正七年二月一三日死亡し、同人の子山田三十四は、その家督相続人であったが、原告の住職とならなかったため、血縁のない三井淳弁、三井雄淳が順次原告の住職となり、また右山田三十四は昭和二八年五月四日に死亡し、同人の妻山田かづ、その子山田修が同人を相続した。

二  被告らについて

《証拠省略》によれば、名古屋市名東区付近では、溜池の水利を受ける水田を所有している者を「田子」と称しており、被告ら及び別紙選定者目録記載の者は牧の池の田子またはその相続人と自称する者であって、牧の池については、右の者らのため所有権保存登記手続もしくは共有持分移転登記手続が、また本件雑種地については、被告株式会社牧の池のために所有権移転登記手続がなされていることが認められる。

三  本件各土地について

牧の池が正保三年(西暦一六四六年)に附近の田畑に灌漑用水を供給する目的で、尾張藩の代官勝野太郎左衛門によって築造され、また、本件雑種地はもと山林であり、牧の池の北端に隣接し、牧の池の堤防護岸工事等に要する採土用の土地として、牧の池に付属され、これと一体をなすものであることは当事者間に争いがない。

そして、《証拠省略》によれば、明治一一年四月九日牧の池について、明治一二年七月一九日に本件雑種地についてそれぞれ地券(「明治九年改正」地券)が発行されたが、牧の池の地券上の表示は、「尾張国愛知郡高針村一四二番字前山 溜池八町五反六畝一二歩 持主共有惣代山田蓮憙」、土地台帳上の表示は「字前山一四二番 溜池二三町一反二三歩 所有者共有惣代山田蓮憙」であり、これを引継いだ登記簿には、右土地台帳と同様に表示され、また本件雑種地の地券上の表示は、「尾張国愛知郡高針村一四一番字前山 山七畝一一歩 共有惣代山田蓮憙」、土地台帳上の表示は「字前山一四一番 山林七畝一一歩地価四七銭所有者共有惣代山田蓮憙」であり、これを引継いだ登記簿には、右土地台帳と同様に表示されていて、その後換地処分により別紙物件目録(二)記載のとおり表示が変わったことが認められる。

第二  牧の池の築造

一  郷土史における伝承

《証拠省略》(猪高村誌)によれば、右「猪高村誌」は昭和三〇年ころ猪高村に残る古記録や伝承をまとめて作成されたが、同書には牧の池に関し次のとおり記載されていることが認められる。

(一)  牧の池は、縦(東西)八二八間、横(南北)六八一間、面積二五六九二坪、周囲二八町二一間の広さがあり、高針一帯のみならず遠く天白村の一部植田に至る水田約一二〇余町歩の灌漑に供する県下第三の大池である。

(二)  牧の池の一帯は約三〇〇年前までは殆ど畑地で、打ち続く旱魃のため作物は枯死し、住民は疲弊の極に達していたが、尾張藩士勝野太郎左衛門が郡奉行となり、高針の地を巡察してその実情を知り、溜池の築造を計画し、そして、村民がすすんで労務に従事し、数年を経て長さ一三四間、高さ五間、根敷二九間、馬踏幅三間半の大堤防を構築して、大事業が完成した。完成時は、正保三年(西暦一六四六年)春で「牧の池」と名付けられた。

(三)  勝野家所蔵の文書にも「尾州愛知郡高針村牧池之図」が現存し、「此村惣高一五〇〇余石内九三石目池ニ成ル、残高一四〇〇石余毎蔵御免四ツ以上成ル。此辺ノ田ヲ牧田ト云フ所也、池ニ成ル故牧池ト云フ。」とされている。

(四)  高針村民が、勝野を徳とし毎年一一月新穀一升青銅二〇〇文をその墓前に供献し、感謝の誠を献げた旨「尾張名所圖繪」等の記録にも残され、又長い期間続けられた。後に大正八年三月村民の手で牧の池西方池畔、丘陵の上に高さ一丈二尺、巾四尺の頌徳碑が立てられた。

以上の「猪高村誌」記載のような牧の池築造の経緯について、本件証拠中にもこれに反する証拠はないから、右記載はほぼ史実と推測されるところ、そうすると、牧の池の築造は、当時としては大工事であって、右工事は尾張藩等の公権力を背景としなくては不可能であったであろうし、その築造の目的は、藩の政策に基づく公共的な性格を有するものであったと推測される。

二  牧の池の敷地

1  原告及び参加人らは、牧の池の敷地は、従来の高請地(課税地)が含まれていたと主張するのでこの点について検討する。

(一) 次のような古文書等が存在する。

(1) 鑑定人福島正夫の鑑定の結果及び証人福島正夫の証言(以下両者を一括して福島鑑定という)によれば、徳川林政史研究所所蔵の「愛知郡支配村々地帳 水野代官所」には「愛知郡高針村 高一五四九石九斗八升 田畑一一三町四反七畝八歩 内九三石一斗四升六合 田畑八町五反六畝一二歩 証文引」と記載されていること、そして右「愛知郡支配村々地帳 水野代官所」は領主側が作成した文書で尾張藩領内の耕地石高を書上げたうち水野代官所分の明治四年の旧藩の廃藩置県の引継ぎ用の帳簿であることが認められる。

(2) 《証拠省略》(以下三橋鑑定書という)によれば、文政五年(西暦一八二二年)樋口好古によって著された「尾張徇行記」には、高針村田畑一五町九反二畝一七歩の内、九三石一斗四升六合、八町五反九畝二七歩が証文引と記載されていることが認められる。

(3) 《証拠省略》によれば、徳川時代に高針村の村役場の役割を果していた東勝寺に保管されていた古文書には「池 弐拾壱町弐反九畝廿五歩 右筆之内八町五反六畝十弐歩 牧池敷地 此高 九拾三石壱斗四升六合 証文引」(地券の下書の下書)、「八町五反六畝拾二歩 池敷証文引 高九拾三石壱斗四升六合」(高針村地価仕出帳)と記載されていることが認められる。

(二) そして、鑑定人伊藤忠士の鑑定の結果及び証人伊藤忠士の証言(以下両者を一括して伊藤鑑定という)、鑑定人石井良助の鑑定の結果及び証人石井良助の証言(以下両者を一括して石井鑑定という)、福島鑑定、鑑定人喜多村俊夫の鑑定の結果(以下喜多村鑑定という)、三橋鑑定書によれば、右各文書中の「証文引」とは江戸時代の土地制度において使われた用語で、溜池の築造による耕地の水没などの理由で年貢が免ぜられた土地を意味すること、《証拠省略》は明治初期の地租改正に際して高針村内の土地の状況について村関係者が作成したものであることが認められる。

(三) 以上によると、尾張藩や明治初期の古文書等において、高針村の八町五反余の田畑について九三石一斗四升六合の年貢が免除されている旨記録され、右の各記載の内容が概ね一致しているから、同一の土地に関するものと推認でき、そして、右《証拠省略》に「牧池敷地」との記載があることからして、結局牧の池の敷地にはかって八町五反余の田畑で高九三石一斗四升六合の高請地があったが、牧の池の築造により水没したため、「証文引」とされ、年貢が免ぜられたことが推認される。

(四) もっとも、前記認定の牧の池の官簿上の面積を見ると、地券上は八町五反六畝一二歩、土地台帳及び登記簿上は二三町一反二三歩とされており、右旧藩の記録から地券に至るまでの記載とその後の土地台帳、登記簿の記載とが食違っている。

福島鑑定によれば、右の点について土地台帳の作成の際に、測量し直したために、官簿上の表示が変わったとの見解を述べているが、そうすると、池の築造による水没地は高請地八町五反六畝一二歩以外の土地が含まれていた可能性があることになる。

2  次に、原告は牧の池の敷地には、「悪泉」と称する土地が含まれていると主張するので、この点について検討する。

(一) 《証拠省略》によれば、蓮教寺に古くから保管されていて、そして、明治元年と表示された文書と一体となっている右甲第一六号証中には「村方 辰右衛門分定免 一、掟六斗五升 悪泉 右地所牧池敷地ニ相成居候ニ付掟年貢勘定ハ毎年村方庄屋より割取之節代銭を以勘定有之筈 右下用ニ差次 皆済」と記載されていることが認められる(この意義については後に検討する)。

従って、右甲第一六号証は明治元年ころ作成されたと推認されるのであり、そして、また右甲第一六号証の「悪泉」と称する土地が、少なくとも牧の池築造時から明治元年までのいずれかの時期に、牧の池の敷地に含まれていることが推認される。

(二) そこで、進んで、右甲第一六号証に記載されている「悪泉」と称する土地は牧の池築造当時から牧の池の敷地に含まれていたかの点についてみると、喜多村鑑定によれば、牧の池は当初面積八町五反六畝一二歩、高九三石一斗四升六合の田畑を水没せしめて池敷とし、その後、灌漑地域拡張のため築造当初の池敷に接続し、耕作不能かほとんど収穫のない「悪泉」と称する土地を池敷に加え、明治当時の実測面積二三町余である規模の牧の池となったとの見解であり、他方、三橋鑑定書によれば、築造当時の牧の池の面積は土地台帳上の面積二三町一反二三歩と同じであったことを仮定して、右総面積から証文引の耕地面積八町五反六畝十二歩を差引いた一四町五反三畝二六歩が、耕作地以外の水没地であり、これについて尾張藩の記録が残されていないのは、当時経済価値の高かった山林ではなく、「牧の池」の通称からしても、無主の放牧地か採草地で上池、下池という小さい池のあった土地と推定されるとの見解であることが認められる。

しかし、右各鑑定の見解はいずれも根拠が十分ではなく、結局「悪泉」が牧の池の敷地となった時期を認めるに足りる証拠はない。

3  以上によると、結局牧の池の築造当時水没した土地には少なくとも約八町五反の田畑が含まれていたので、その当時高九三石一斗四升六合の年貢が免除されたこと、及び築造時から明治初年までの間に「悪泉」と称する土地が牧の池の敷地となったことが推認されるにとどまり、牧の池の築造時の規模面積及び後に拡大されたか否かの点については確認するに足りる証拠はない。

三  牧の池築造当時の原告らの経済的状況

1  三橋鑑定書によれば、「寛文村々覚書」には、高針村の家数は一二七戸で田畑は一三五町とあるから、一戸あたりの耕地の平均は約一町歩(石高で一〇石)となること、高針村で一農家が生活するのに必要な石高を一〇石、反別にして一町歩とすれば、田畑九三石一斗四升六合に相当する溜池八町五反九畝二七歩の池敷分は高針村の約八世帯分(約五〇人分)に相当すること、入鹿池築造の場合は水没耕地を耕作していた農民に立退きのための補助金や新田を与えて生活の保護をしたことが記録として残っているのに牧の池の場合にはこうした記録が一切残っていないことからすると、牧の池の敷地はこのように広い土地を水没によって失っても困らない大豪族で、寺院のように衆生済度の思想によって人々の信仰と崇敬を得る必要がある者によって提供されたはずであるとの見解であることが認められる。

しかし、《証拠省略》(尾張徇行記)によれば、「此村ハ小百姓ハカリニテ農事ノミヲ以テ生産トス」と記載されていることが認められ牧の池築造当時高針村内に大豪族が存在していたことについてむしろ否定的であることに対照すると、三橋鑑定書記載の前記推論はたやすく賛同できない。

2  そこで、牧の池築造当時の原告の資産状況について検討する。

(一) まず、前記《証拠省略》(尾張徇行記)によれば、高針村の田畑が一三五町一畝一七歩であった旨記載されているほか、原告の寺有地として、年貢地とされていた二反五畝の境内地、除地(除税地)とされていた七畝三歩の墳墓地及び分寺白山祠の三反七歩の境内地がある旨記載されていることが認められ、また、《証拠省略》(法雲山傳來略縁記)によれば、同文書は寛政六年(西暦一七九四年)原告第一二代住職蓮浄の作成名義となっているが、同文書中に「旧地墓所今境内ヨリ巽之方畑中ニ当タリ……旧キ寺地故七畝三歩前々除申伝……」と記載されていることが認められる。

(二) そうすると、牧の池築造時以後の一八、九世紀ころの古記録では、一三五町余の高針村の田畑に対して、原告の資産は境内地や墳墓地等を合計しても高々六反二畝余の土地しか記録されていないことになる。

そして、右《証拠省略》(法雲山傳來略縁記)によっても、牧の池築造当時の原告七世住職蓮貞について、牧の池築造に関する事項及び当時までに原告が格別の資産を有していたことの記載は認められない。

なお、証人三井としは、牧の池が出来た場所は谷で、原告が敷地の大部分をもっていた他、数人の者が田畑を有していたが、その立退きについて原告が田畑を提供したので話がついた旨同人の姑である三井みち(原告第一七代住職訴外三井雄淳の母)から聞いた旨証言し、《証拠省略》の記載も同趣旨であるが、これらは伝聞に基づくもので根拠に乏しく、たやすく採用できない。

3  次に、牧の池築造当時の住職山田家の資産状況について検討する。

(一) まず、三橋鑑定書によれば、天台宗は肉食妻帯を許さなかったが、浄土真宗はこれを公然と許すことから、原告が永禄年間(西暦一五五八年ないし一五六九年)浄土真宗に改宗後、原告が領有地を有しなかったため、住職一族たる山田家は住職としての活動の他に高持百姓としての活動によって次第に増加していく一族の生計を立てざるをえなかったので、山田家は、当時「牧」といわれた近辺の草地の開発をして、牧の池が築造された正保三年(西暦一六四六年)までの八五年間に高針村の大豪族に成長していたとの見解であることが認められる。

しかし、喜多村鑑定は、原告は浄土真宗高田派の寺であるにもかかわらず、同派に帰依した後牧の池築造のころまで法脈承継が行われていたとの見解であり、また、《証拠省略》によれば、原告の住職の地位の継承について「天台門歴世法脈相承次第」「浄土真門法脈相承」であること、原告が浄土真宗に改宗した後の住職たる蓮光(香)、蓮、蓮智、蓮勝については、「法弟」承継であった旨記載されていることが認められるし、また、前記認定のとおり、「尾張徇行記」には蓮教寺の資産として二反五畝の境内地と七畝三歩の墳墓地及び三反七歩の白山祠しか記載されておらず(これが原告の寺有財産か住職の個人財産かの問題はあるにしても)、いずれにしても、原告または山田家が大寺院、大豪族であって、多くの資産を有していたことを裏付ける資料はないから、三橋鑑定書の見解を採用することはできない。

従って、原告の改宗した永禄年間(西暦一五五八年ないし一五六九年)から牧の池築造(正保三年・西暦一六四六年)までの八五年間に山田家が高針村の大豪族に成長していたことを認めることはできない。

4  もっとも、《証拠省略》によれば、原告に保管されていた古記録中に原告は文化年間(西暦一八〇四年ないし一八一八年)及び文政年間(西暦一八一八年ないし一八三〇年)に百姓らに祠堂金を貸付けて、田畑を質物として差入れさせ、また御役所に祠堂金を貸付けたり、御本山または大雲院に寄附金等を納めていたこと、天明三年(西暦一七八三年)原告が寺社御役所に対して祠堂金一〇両や高針村、梅森村及び赤池村内の田畑山林一七箇所を祠堂物として報告し、また、安永四年(西暦一七七三年)同様に祠堂金一五両や高針村、梅森村及び赤池村内の田畑山林一九箇所を祠堂物として報告していたこと、原告は文政四年(西暦一八二二年)ころ高針村内に総坪数二九一八坪七合余の白山権現社を有していたこと、文化一四年(西暦一八一七年)ころ赤池村に田畑や休息所を有していたこと等が記載されていることが認められ、また《証拠省略》によれば、原告に保管されていた古記録には明治元年当時原告もしくは山田家が高針村やその近隣で支配した土地からの一年の掟高は村内の小作人一二六人に貸付けたもの一七七石八一七合、村外の小作人一九人に貸付けたもの二三石八一〇合、手作地四〇石七九五合、村方六斗五升、合計二四三石余、小作人数一四五人であって、そして、右掟高二四三石は濃飛地域一般にみられる事例から推計して、約二〇町歩の土地を有していたことが認められる。

右のように原告または住職山田家は、安永四年(西暦一七七三年)ころ以後相当資産を有し、繁栄していたことになるが、しかし、右はいずれも一八世紀後半以後のことであって、牧の池築造時に右のように繁栄した状況であったことを推認することはできない。

5  以上のとおり牧の池の築造の面から検討したところによると、牧の池の築造によって水没した約八町五反余、高九三石一斗四升五合の土地は、約八世帯五〇人分の耕地に相当するのに、水没耕地を耕作していた者のために、補助金や新田を与えた記録が残っていないが、牧の池の築造について一方尾張藩の関与が存在し、他方当時原告はわずかな境内地、墓地及び分寺の境内地を有していたことが記録されているにとどまり、原告が牧の池の敷地を提供したことを認めるに足りないし、更に、山田家についても、住職家の高持百姓としての活動によって取得した財産は全て寺院の寺有財産と区別されて住職の個人財産となっていたとは限らず、そして、また、原告が浄土真宗高田派に改宗したからといって、直ちに住職一族及びその資産が増加し、住職山田家が牧の池敷地を提供したことを認めるに足りない。

第三  明治維新時における牧の池の権利関係

一  明治維新ころの牧の池に関する古文書等の存在

1  《証拠省略》によれば、以下の記載が認められる。

(一) 「明治元戊辰九月一七日 辰年貢 雲山知事」、「辰歳収納米記」

(二) 「村方 辰右衛門分定免 一、掟六斗五升 悪泉 右地所牧池敷地ニ相成居候ニ付掟年貢勘定ハ毎年村方庄屋ヨリ割取之節代銭ヲ以勘定有之筈 右下用ニ差次 皆済」

2  《証拠省略》には以下の記載が認められる。

(一) 乙第三二号証には「癸明治六年 石代納受取帳 酉十二月日當番社」と記載され、以下同号証の一ないし四には村の収支が記載され、そのうち同号証の一の村の支出の全体の欄には、「引〆九拾壱石三升九勺 代四百三拾八円九拾壱銭四厘」との記載、また、同号証の二の村の支出の項目の欄には「三円拾三銭四厘 蓮憙悪泉年貢分」、「壱円六銭七毛 勝右衛門分悪泉年貢分」との記載がある。

(二) 乙第三三号証各証には、同号証の一に「寛政十一年 愛知郡高針邑名寄高帳 末正月改 東古谷嶋」と記載されている他、同号証の二から同号証の四までは同号証の二の「蓮教寺藤七分共」という表題の下に、古川以下の土地名とその石高が記載され、同号証の五と六は同号証の五の「辰右エ門分 寺」という表題の下に、同様に古川以下の土地名とその石高が記載されている。

(三) 乙第三四号証各証には、同号証の一に「慶應三年 愛知郡高針村名寄高帳 卯三月 東古谷嶋」と記載されている他、同号証の二から同号証の七までは同号証の二の「蓮教寺」という表題の下に、古川組以下の組名とその石高が記載され、同号証の八から同号証の一〇までは同号証の八の「蓮教寺持 辰右エ門分」という表題の下に、古川組以下の組名とその石高が記載されている。

(四) 乙第三五号証各証には、同号証の一に「慶應三年 惣割諸勘定目録 卯三月高針村庄屋」と記載されている他、同号証の二から同号証の一〇までは村としての年貢諸役の負担、村下用についてまとめて計算し、各組に配分した内訳が記載されており、同号証の五には「悪せん 年貢米 六斗五升 一、弐拾七貫百七拾二文 蓮教寺」、「悪せん 年貢米 弐斗弐升 一、九〆二百文 吉左衛門」と記載されている。

二  そこで、石井鑑定、福島鑑定、伊藤鑑定、喜多村鑑定及び三橋鑑定書に基づき右各文書特に甲第一六号証を中心に検討する。

1  まず、右各甲号証は、原告の檀家もしくは原告の収納役等原告の関係者または山田蓮憙のいずれが作成したものであるか、またその作成時期及び右甲号各証が一体をなす文書であるかについても、各鑑定によって見解が分かれているが、甲第一四号証の一及び二はその体裁や記載の内容及び各鑑定によれば、帳簿の表紙であり、明治元年に原告が収納した小作米について住職山田蓮憙が作成したものと推認され、また甲第一六号証も内容が関連していることからして、明治元年もしくはこれと近接した時期に作成されたものと推認される。

次に、右各乙号証は、その体裁や記載の内容及び各鑑定によれば、いずれも、その第一葉目に記載された年ころに高針村の庄屋その他の村役人によって、同村の勘定等を記載した帳簿類と推認される。

2  甲第一六号証の前記記載については各鑑定、鑑定書の間で見解が分れている。

(一) まず、「辰右衛門分定免」についてみる。

このうち、「定免」とは年貢の高を年によって変動させることがなく、固定されていた土地であることを意味する点では各鑑定、鑑定書間に見解の相違はない。

次に、「辰右衛門」とは字義からすると通常人名を意味し、石井鑑定によればこれを現実の作人(小作人)とみる見解であるが、しかし、伊藤鑑定、福島鑑定によれば辰右衛門「分」の「分」付は一般に隷属関係、血縁関係、村付知行など諸々の意味を持つが、初期の検地帳に名請人として記載された者の名がその土地の呼称になったか、あるいは譲渡、売買等による土地の所持主体の移動を示していると考えられ、検地が行われたときに、「辰右衛門」の名前で検地帳に記載されていた土地が、後世原告のものとなったことを意味するとの見解であること、また、伊藤鑑定によると、乙第三三号証(「寛政十一年 愛知郡高針邑名寄高帳」)及び乙第三四号証(「慶應三年 愛知郡高針村名寄高帳」)にそれぞれ「辰右衛門分」と記載されていることは、少なくとも寛政一一年以前に「辰右衛門分」とされた土地が、原告の支配下に入っていたことを意味し、そして、その後慶應三年まで約六〇年以上にわたって同一人が支配していたとは考えられないとの見解であること、更には「辰右衛門」が当時実在していたことを認めるに足りる証拠がないこと等からすると、右甲第一六号証の「辰右衛衛門分」の記載が実在の作人(小作人)を表すとの石井鑑定の見解はたやすく採用できない。

従って、石井鑑定のように、この土地について当時「辰右衛門」という現実の作人(小作人)がいたとは考えられないが、豊凶にかかわらず一定の税率を課されていた一種の地籍的意義をもつ土地があり、これが何らかの理由で原告もしくは山田家の支配に入っていたことが推認されることになる。

(二) 次に、「掟六斗五升 悪泉」についてみる。

まず、「掟」とは、各鑑定によると年貢(もしくは小作料)を意味し、甲第一六号証全体の文言からして、右の部分は「悪泉」と称する土地の年貢が六斗五升であったことと解釈され、なお、伊藤鑑定、福島鑑定によると乙第三三号証(「寛政十一年 愛知郡高針邑名寄高帳」)、乙第三四号証(「慶應三年 愛知郡高針村名寄高帳」)の平均値によると、石高一石は面積にして約一反歩と考えられるから、右「六斗五升」は通常の耕地の年貢率で計算してみると、精々七畝程度の土地に相当することが推測される。

また、「悪泉」とは各鑑定によれば一般に水はけが悪く耕作に適しない土地であることを指すことに見解の相違はない。

(三) そこで、「右地所牧池敷地ニ相成居候ニ付」についてみる。

石井鑑定によれば、「右の地所は元来牧の池の敷地なのであるから」の意味であり、従って、牧の池が元来原告の所有地であったが、池が干上ったので、これを耕地(農地)にしたため、その年貢を原告に支払うようになったとの見解であるが、前記のとおり、甲第一六号証の「辰右衛門分」とは現実の作人(小作人)を表すものとは認められないし、また、福島鑑定によると、牧の池の水量の増減によって池の干潟ができることはあっても、溜池の堤塘内に田畑を作ることは考えられず、もし、田畑があったなら、地租改正の時に有税地となっていたはずであるがこうした形跡もないし、堤塘内に田畑を作り溜池を狭くすることは、牧の池の水利による灌漑面積を狭くする結果となるとの見解、更には右文言の素直な解釈からすれば、伊藤鑑定、福島鑑定のように、「右地所は牧の池の敷地になっているから」という意味であると解釈するのが妥当であり、右石井鑑定の見解は採用できない。

(四) 次に、「掟年貢勘定ハ毎年……」以下についてみる。

各鑑定及び各鑑定書によると、「掟年貢勘定……」から「……代銭ヲ以勘定有之筈」までの部分は、悪泉の土地について「掟年貢」の勘定(精算)は毎年村方庄屋より「割り取る」際、代銭をもって精算することになっている、「下用ニ差次」とは、村の諸費用に繰入れる、「皆済」とは、納入完了をそれぞれ意味するものであることについていずれも見解の相違はないから、前記悪泉という土地について原告もしくは山田家は、甲第一六号証が作成された明治初年ころ、村方から年貢を収納していたことを意味することになる。

(五) 以上によると、甲第一六号証記載内容は、「悪泉」と称する土地が明治初年ころには牧の池の敷地となって水没しており、かつそのころまでに原告もしくは山田家の支配する土地となっていたので、右土地について、明治初年ころ六斗五升の米に相当する代銭が原告もしくは山田家に支払われていたことを意味することになる。

従って、福島鑑定の見解のように、牧の池の敷地がもと高請地として持主があったが、それが池敷となったために灌漑用水の利益を受ける村方から報償米を支払う慣行があったものと推認されることとなる。

3  ところが、こうした「悪泉」と称する土地は甲第一六号証の「悪泉」以外にも、前記認定のとおり前記乙第三二号証(「明治六年 石代納受取帳」)の二の「壱円六銭七毛 勝右衛門分悪泉年貢分」や前記乙第三五号証(「慶應三年 惣割諸勘定目録」)の五の「悪せん 年貢米 弐斗弐升……吉左衛門」にも見られ、そして、福島鑑定によると、「鈴木勝右衛門」なる人物も実在したと推認されるから、甲第一六号証の土地と同様に右「悪泉」ももと高請地であったが、牧の池の敷地となったために村方から年貢米の支払いを受けていたことが推認される。

従って、牧の池の敷地の提供者は原告または住職山田家だけに限定されないことになる。

4  そこで、この土地が牧の池の敷地のうちどの程度の割合を持っていたかを検討する。

(一) 喜多村鑑定によると、甲第一六号証の原告もしくは山田家支配にかかる「悪泉」の石高と乙第三二号証(「明治六年 石代納受取帳」)の二の「勝右衛門」の前記悪泉年貢及び乙第三五号証(「慶應三年 惣割諸勘定目録」)の五の「吉左衛門」の前記悪泉年貢の石高とを対比させて、甲第一六号証の原告もしくは山田家支配にかかる「悪泉」と称する土地は牧の池成立後池敷地となった「悪泉」のうち七割五分を占めていること、「悪泉」の土地については、もともと耕作に適さず通常の耕地に比べて年貢率が低かったと考えられることからして、甲第一六号証の原告もしくは山田家支配の「悪泉」と称する土地は著しく広大であったとの見解であるが、これに反し、福島鑑定、伊藤鑑定によると、甲第一六号証の「六斗五升」の土地と乙第三三号証(「寛政十一年 愛知郡高針邑名高寄帳」)や乙第三四号証(「慶應三年 愛知郡高針村名高寄帳」)の平均値によって、これを通常の耕地の年貢率で計算してみると、精々七畝程度の土地に相当するとの見解である。

(二) 右の喜多村鑑定の根拠は十分でないと考えられるが、仮りに喜多村鑑定の見解のように「悪泉」と称する土地が、収穫が少なく年貢率が低かったとしても、前記程度の年貢量で牧の池敷地の大部分に相当するとする根拠が十分でなく、これに反し福島、伊藤両鑑定の見解は相当の根拠を有し、そして、これによると悪泉と称する土地は牧の池敷地のごく一部にすぎないことになる。

5  以上検討したところによると、原告もしくは山田家は、明治初年ころ牧の池の敷地の一部となっていた「悪泉」について毎年「六斗五升」の年貢を代銭で受取っていたが、「六斗五升」の年貢に相当する土地は約七畝の面積にすぎず、牧の池の二三町歩余の広大さに照らすと、その一部にすぎないことになるし、また、他に「悪泉」の年貢を受取っていた者がいたことからすると、牧の池の敷地の全部を原告もしくは山田家が提供したことを認めることはできない。

第四  牧の池の管理

一  明治維新前の管理

1  《証拠省略》によれば、前記東勝寺に保管されていた古文書等には以下の記載が認められる。

(一) 乙第一号証の表紙部分には「天保三年 牧池杁伏替人足代割附帳 辰十二月南……ケ」と記載され、同号証の二枚目以降には十数人個人名または寺院名の肩書で分担金の支出の取決めが記載されている。

(二) 乙第二号証の表紙部分には「文久三年 杁見分御泊諸事入用……帳 亥九月三日御止宿高針村」と記載され、同号証の二枚目以降には、「御止宿 蓮教寺」との記載の後に油や薪の供出や労役の提供についての分担が人名などの肩書で記載されている。

従って、右乙号各証の記載からすると、天保三年(西暦一八三二年)牧の池の水利施設の修理のため寺院や村民らが金銭及び労役を負担していたこと、文久三年(西暦一八六三年)尾張藩などの役人が、牧の池を視察に来て、蓮教寺に宿泊した際その費用を高針村村民が負担していたことが推認される。

2  明治維新前における牧の池の管理についての詳細を認めるに足りる証拠はないが、右認定事実からすると、少なくとも一九世紀の半ばころは、牧の池の施設の修理を多くの村民らが負担し、また尾張藩による牧の池の視察などの公儀による支配がなされているから原告または住職山田家の独占的な管理が行われていたということはできない。

二  明治維新後の管理

1  まず明治期における牧の池の管理の状況についてみると、原告または住職山田家が牧の池の水利につき支配し、牧の池の修理費を負担していた趣旨の《証拠省略》の記載(別事件の証言調書)は根拠が十分でなくたやすく信用できない。

そして、《証拠省略》によれば、高針村の山田蓮憙を含む地主総代らは明治三七年九月ころ牧の池の水源地山林が禿山であったため古来から植林をし、芝を張り、藁を敷いて牧の池のために砂防の方法をとってきたことを訴えて、右水源地山林を保安林に編入することを県に申請していることが認められるから、右事実からすると、右地主らが牧の池の管理をしていたことが推測されるけれども、明治期についてはそれ以上に牧の池の管理に対する具体的な状況についてはこれを認めるに足りる証拠はない。

2  次に、大正期以降の牧の池の管理についてみると、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

(一) 大正年間以降牧の池の維持管理は「田子」と呼ばれる者が行なってきているが、「田子」とは高針村附近において一般に、溜池から水利を受ける水田を所有する自作農を指し、そして、溜池から水利を受ける水田を失うと田子たる地位を失い、またその水田を取得すると田子たる地位を得る慣行があったが、牧の池について「共有者名簿」等の名称で、田子の範囲を文書化したものは、昭和三六年以前のものについては現存していない。

(二) 大正初めころ牧の池から水利を受ける田は約七〇町歩、田子約三〇〇人であり、牧の池の水利の維持管理を行うための「田子総代」(「田子惣代」ともいう)は五名で、それは牧の池の水利を受ける水田を多数所有する地主から選ばれることになっていた。

そのころ、田子総代とは別に「杁守」という牧の池の修理や水回りをする役職もあって、その人選は田子総代が行い、その報酬は水田を作る者たちからその面積に応じて米を集めて支払われていたが、更に別に、杁守に対し高針の区費である土木協議費からも支払われていた。右土木協議費は地租割、戸数割で大字から、牧の池の水利とは無関係な人も含めて徴収され、牧の池以外の溜池や水路の工事などにも支出されていた。また牧の池の堤防の土取場とされていた本件雑種地の固定資産税は区費から支払われていた。

(三) 大正六年ころ牧の池の敷地の地下から業者によって亜炭が採掘されるようになり、業者から採掘の代償として義納金名義の金員が支払われることになったので、義納金を集金するために田子総代の会計係が設けられて、右義納金を管理し、その大部分は牧の池の護岸工事や牧の池の築造に貢献した勝野太郎左衛門を祭った勝野祭への祝儀等に支出された。

(四) 更に、牧の池の水量が不足した時に、不足分を川から汲みあげて補う工事の費用の負担を水田の用水利用者に割当てたり、牧の池の水路の改修や草刈りの労務費は牧の池から水利を受ける耕地の面積に応じて集めた米から支出されたこともあったが、大改修工事は県や国の補助金を受けて行われた。

(五) このように、大正年間ころ以降は田子総代と称する牧の池の管理についての役職が存在していたが、その後これ以外に、「田子寄合」と称する役職ができ、右田子寄合の役員は、大字高針の六箇所の字から土地を多く持っている者や牧の池の管理などに縁の深い者が各二人ずつ選出されていた。そのころの牧の池の管理費のうち、前記義納金で賄えない部分は「牧池田子」又は「牧池田子総代」名義で地主から賦課金を徴収しており、昭和一〇年に牧の池の水路工事をした際に、原告からも地租割でこれを徴収した。

(六) 昭和二二年ころ牧の池から水利を受けている耕地を所有している者を組合員として牧の池水利組合が結成され、その結果、これまで存続してきた牧の池の田子総代や田子寄合はなくなり、杁守の推薦やその報酬の決定は右組合が行ったほか、牧の池の幹線水路の修理等を名古屋市及び愛知県から補助を得て行った。

(七) これに対して、原告や山田家は、大正以降田子総代の地位にいたことはなく、そして、山田蓮憙の家督相続人であった山田三十四は高針村内を離れて名古屋市内に居住し、昭和一四年ころ高針村の住民が共有していた梅森坂の三筆の土地を売却した際に、山田三十四は高針の区長から金三〇円を受けとって、火葬場や高針区内にある溜池の持分権を放棄した。

三  以上を要するに、明治維新以前は、牧の池の管理について尾張藩或は村民らの負担による修理がなされており、また大正期以降は、原告もしくは山田家を除いた牧の池の水利を利用する農民らによって、田子総代、田子寄合、牧の池水利組合という形で管理されてきたが、高針の区費から管理費用が支出されたり、国、県、市からの補助金を受けていたこともあるのであって、原告または山田家が牧の池を独占的に管理を行なっていたということはできない。

従って、牧の池の管理の面から検討しても、原告または山田家が牧の池を築造し、その所持進退または所有権を有していたものと認めることはできない。

第五  地租改正における牧の池の取扱い

一  地租改正の経緯

1  徳川時代には近代法におけるような抽象的包括的絶対的な支配権としての所有権(一物一権主義)はなく、具体的用益と不可分に結びついた所持、支配進退といわれる土地支配権があったのであり、しかも、この土地支配権は封建的社会構造を反映して、一つの土地について年貢徴収権その他公法上の権能を含む領主的所持と現実的な耕作用益する農民的所持とが重なり合って存在していた。

ところが、明治維新に至り、明治政府は、明治元年一二月一八日の太政官布告によって封建領主の土地領有を廃止し、明治五年二月一五日の太政官布告第五〇号によって、四民(士、農、工、商)に土地の所持を許し売買の自由を認めた。

次いで、明治政府はその財政的基盤を確立するため地租改正により民有地を対象として地租を徴収する必要に迫られ(明治六年七月二八日太政官布告第二七二号「地租改正条例」の制定)、そして、右地租改正の手続過程で、従来の土地に対する複雑な封建的支配関係を廃止、整理し、従前の支配進退の実績に照らして官民有の区分をし、民有地についてはその所有者に対し地券を交付することによって土地に対する近代的所有権を確立させるとともに地租納税義務者を確定した。

2  そこで地租改正の具体的手続についてみることとする。

前記各鑑定及び各鑑定書並びに公知の事実によると次の事実が認められる。

(一) まず、右のように、明治五年二月一五日太政官布告第五〇号によって土地売買の自由が認められたのに続いて、同年同月二四日大蔵省達第二五号地所売買譲渡ニ付地券渡方規則に基いて田畑山林原野池沼等を対象として「壬申地券」が発行され、次いで、明治六年七月二八日に公布された地租改正法と地租改正条例などの付属法令の発布に伴い、その土地の所有名義の表示の他に、政府に対し金納地租を納入する義務を付帯するものとして改正地券が発行されたが、この改正地券は、明治二二年三月、土地台帳規則が公布されて地券制度が廃止されるまで土地の私的所有を法的に示す根拠となった。

(二) 地租改正の手続は、原則として、まず町村を単位とし土地の持主の申告により地価の調査をさせて、地価帳を作成させ、改租担当官による右の地価帳の書面による検査を経たうえ、さらに実地調査として、村の手で土地の丈量を行ない、各土地の所有者、字、地番、地積を記載した地引帳とこれに対応した地引絵図を作成したものを、改租担当官が実地で確認し、地価を定めて地券を発行することとしていた。しかし、実際には、右の地押丈量の手続は原則としておこなわれず、当該町村の土地公簿たる検地帳や村方の名寄帳その他の帳簿類を照合するなどして行われていた。

(三) 愛知県における壬申地券の発行について、最初の愛知県達は明治五年八月に出され、それは県においてまず持主限取調帳の作成を各村に命じ、提出期限は八月末日までとされている。同様に、改正地券の手続は、明治七年三月以降の愛知県達等に基づいて行われたが、地押丈量をして地引帳と地引略図を調成させ、これを改租担当官が実地に赴き照査して行った。

(四) ところで、従来年貢が免除されていた土地のうち、溜池等の扱いは次のとおり変遷した。

(1) 当初、明治五年九月四日大蔵省達第一二六号地券申請渡方規則においては、池沼などの「地価難定土地ハ」公有地とすること(第三四条)、「数村入会ノ山野ハ村々ヲ組合トシ……村ノ公有地ト認メ」地券を発行する(第三五条)旨定められ、租税寮改正局明治五年一〇月三日達によれば、「公有地」は、従来の「官林官山」や「村持山林牧場」などで、地価も定めることができず、かつ将来人民が払い下げを願出るまでは持主を定められないものとされている。

そして、明治五年二月一四日地所売買譲渡ニ付地券渡方規則の同年一〇月末日大蔵省達第一五九号の増補では、溜池などの公共的な潰れ地で従来から年貢等の負担の免ぜられていたものは、無税地とする旨定められていた。

(2) 次に、明治六年三月二五日太政官布告第一一四号地所名称区別によれば、湖沼等で旧来無税地で官簿に記載されていない土地を官有地とし、実質的には入会地である一般公有の有税地又は無税地を公有地とする旨定められているほか、右公有地を二分し、村方の独占的排他的利用を認めるが村方に「故障」がないという条件で払下げられ、最終的に村方の私有が否定されるものと村方の処分の自由が認められ、完全な私有が認められるものとの二種類に分類されている。右達の説明においても、公有地は村方の希望により払下げが可能とされていた。

(3) 明治六年七月二八日地租改正法に伴う地租改正施行規則によると、従来一村又は数村において貢租を納めていた堤敷等については地租改正によって無税地とされ、その対象地として溜池も含まれていたが、その後明治七年八月二三日租税寮改正局の達第六号によって、「利潤のないもの」については「持主之情願ニ依リ」無代価地券を交付することとされた。

(4) しかし、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号は、明治六年三月二五日太政官布告第一一四号地所名称区別を改め、公有地の制度を廃止して、土地を官有地と民有地とに大別し、「人民各自所有ノ確証アル宅地耕地山林等」を民有第一種に、「人民数人或ハ一村或ハ数村所有ノ確証アル学校秣場社寺等官有地ニアラサル土地」を民有第二種に、「官有ニアラサル墳墓地」を民有第三種と定めた。

そうして、政府は右太政官布告第一二〇号発布の同日第一四三号の達を出し、従前の村請公有地は所有の確証あるものは取調べの上民有第二種に編入し、官有地と認められるものは官有地に編入すべき旨を定めた。

(5) 明治七年一一月七日右太政官布告第一二〇号も更に、明治八年一〇月九日太政官布告第一五四号によって改められ、民有の溜池等は民有地第三種と規定されたが、その後、明治九年六月一三日太政官布告第八八号によって、民有地第二種を第一種に合せ第三種を第二種にあらためている。

このような経緯を経て、溜池敷地の地券は無税地、無代価として発行されることになった。

(五) 次に寺院関係の法令等に付いてみると、まず、明治四年一月五日公布された寺社上知令は「現在ノ境内ヲ除ク外」上知つまり没収を命じる、というものであるが、その規定の趣旨は、大名の版籍奉還と対比しても明らかなように、元来上知の対象としていたのは封建所領としての社寺領のみであり、寺社が百姓としての立場で所持していた土地はそのまま所持することが許されていたことは、同令に「社寺直作小作ニ預ケ」ていたものは従前のとおりとされていたことから明らかであり、明治八年七月八日地租改正事務局議定地汲処分仮規則では神官僧侶が私費で開墾した時には、その土地は官没されず開墾者私有名義の地券が出される旨の法令もあった。そして、明治九年九月二六日の愛知県伺に対する地租改正事務局の指令において、寺院境内の土地が世襲の住職の土地である確証や祖先が自費で買得し、これを世襲した確証があるときは、住職の所有とすることができるが、こうした確証がなければ、住職の土地である旨を檀中一同が保証するなどしても、寺院の所有にしなくてはならない、との趣旨が示されている。

しかし、廃合寺院跡地並ニ建物処分規則(明治八年九月七日内務省達乙第一二五号)のように特殊の事情で社寺有財産を官没の対象とする法令もあった。

二  地租改正の際の牧の池に関する古文書等の存在

1  《証拠省略》によれば、前記東勝寺に保管されていた古文書等には以下の記載が認められる。

(一) 「明治九年九月 地位銓評帳」のうち、

(1) 「……七字前山……」の部には、「百四十一番 山七畝十一歩 共有惣代山田蓮憙、百四十二番 溜池 八町五反六畝十弐歩 共有惣代山田蓮憙」の記載

(2) 「……十一字古谷……」の部には、「二百廿六番 宅地弐反八畝八歩 山田蓮憙、二百廿七番 一宅地壱反九畝十歩蓮教寺、同 二百廿八番 一畑六畝六歩 山田蓮憙」等土地とその肩書人の名の記載、

(3) 「……十三字勢古坊……」の部には、「溜池壱反歩共有惣代山田蓮熹」の記載

(4) 「……十五字極楽……」の部には山田蓮憙個人名義の「溜池弐十歩」の記載がなされている。

(二) 「明治十年七月 字前山地租地価取調帳」には「三等字前山 ……同百四十番 山七畝十壱歩 其有惣代山田蓮憙、同百四十二番 溜池 八町五反六畝十弐歩 其有惣代山田蓮憙」と記載されている。

(三) 「地券下書の下書」には、高針村内の溜池及びその末尾に「池弐拾壱町弐反九畝廿五歩 右筆之内八町五反六畝十弐歩牧池敷地此高三石壱斗四合証文引」の記載、作成日付は「……明治六年酉七月……」、その作成名義人は副戸長の氏名が記載されている。

(四) 「明治六年酉七月 尾張國愛知郡第二大區十二小區 高針村地價仕出帳」の署名者の名義は副戸長であり、その内容は、各人ごとの所有地、地種、面積、石高、地価等であり、そのうち同号証の三には、「千六百九十一号……字前山 百四十一番 池壱ケ所八町五反六畝十二歩 村持名代 山田蓮憙」と記載されている。

そして、同号証の二四は、高針村全体の総反別、高、上納米、地価の総額を計算したもので、同号証の二五には、「外ニ八町五反六畝拾弐歩 池敷証文引 高九拾三石壱斗四升六合」と記載されている。

(五) 「明治六年酉七月 尾張國愛知郡第二大區十二小區 高針村地價仕出帳 七冊之内四番」には、山田蓮憙名義の土地の地番、地積、石高等が記載されている。

(六) 「明治九年六月 地引帳 愛知郡高針村」(乙第四〇号証の一ないし四)のうち、

(1) 「七字前山」の部(同号証の二)には、「百四十一番 一……兀山 七畝十一歩 民有 其有惣代山田蓮憙(但し、「牧池地取場」、「村有」と書かれたが、抹消された跡がある。)、百四十二番 一溜池八町五反六畝十二歩 民有 其有惣代山田蓮憙」の記載

(2) 「十字北嶋」の部(同号証の三)には、山田蓮憙らの個人名義の田や東勝寺名義の境内の地番、地積等との記載

(3) 同号証の四には、「尾張國愛知郡高針村」と頭書され、山田蓮憙らの個人名義の田の地番、地積の記載、蓮教寺名義の宅地の地番、地積の記載がなされている。

2  次に、《証拠省略》によれば、蓮教寺に古くから保管されていた古文書等には以下の記載が認められる。

(一) 「境内其他什物等取調書」には、境内の建物として、「本堂 三拾七坪七分、庫裡六拾坪、玄関 十壱坪五分、書院 四拾八坪、門 三坪三分、橦鐘堂 三坪、井 三坪、土蔵 壱坪五分、物置 十四坪」と記載され、作成名義人は原告住職山田蓮憙及び檀家惣代、宛先は県知事、作成日付は明治八年三月と記載されている。

(二) 「共私区別願」には、境内の宅地反別改正四反七畝十八歩の内、「本堂境内壱反九畝十歩ハ共有地」であるが、居住地の二反八畝八歩は寛政年間以降に買い求めた確証が有り、……ところが一昨年明治八年の御達の趣旨を誤解し、「共私」区別をしなかったので、このたび本堂境内と居宅住地との境界をしてほしい旨希望していること、そして、この「願」の別紙として付けられている「共私区別表」には、「宅地壱反九畝十歩 蓮教寺共有地之分」あるいは「宅地弐反八畝八歩 山田蓮憙私有地之分」として右のとおり「地引帳」に記載されることを希望している旨記載され、作成名義人は山田蓮憙、作成日付は明治一〇年一二月と記載されている。

三  牧の池の地券に対する検討

1  明治一一年四月九日牧の池について、「尾張国愛知郡高針村一四二番字前山溜池八町五反六畝一二歩 持主共有惣代山田蓮憙」、明治一二年七月一九日本件雑種地について「尾張国愛知郡高針村一四一番字前山 山七畝一一歩 地価四三銭 共有惣代山田蓮憙」とする各地券(「明治九年改正」地券)が発行されたことは前記認定のとおりであり、右各地券はその表示及び発行の時期からしていわゆる「改正地券」であり、また牧の池の地券は地価の表示のないいわゆる無代価地券であることが明らかである(以下本件地券という)。

そして、地券はその根拠法令からして土地の権利を設定する設権文書と解せられないとしても、前述したような明治維新における近代的所有権の確立、地租改正の目的及び厳格な手続を経て発行されていることからして、本件地券上の表示は牧の池及び本件雑種地の権利の帰属に関する重要な判断資料であると考えられる。

そこで、前記の地券発行に関係する文書及び本件地券について、本件の各鑑定及び鑑定書を中心として以下検討する。

2  まず本件地券発行の経過についてみることとする。

(一) 「地券下書の下書」は、明治六年七月、壬申地券の発行のために作られた持主限取調帳の下書きとしての性格を持つ文書であることは、各鑑定及び三橋鑑定書の間でも見解の相違はなく、右の下書きに基づいて作られた持主限取調帳が、明治六年七月ころ作成された「尾張國愛知郡第二大區十二小區 高針村地價仕出帳」であり、壬申地券発行のために作成されたことについても各鑑定及び鑑定書の見解に相違はない。

そして、明治九年六月の「地引帳」、同年七月の「地租改正地価取調帳」、同年九月の「地位銓評帳」はその作成時期、その記載内容から改正地券発行のために作成されたものと推認される。

(二) 次に「地券下書の下書」には、牧の池の敷地について「八町五反六畝十弐歩山田蓮憙」とされており、個人名が記載されているが、明治六年七月の「尾張國愛知郡第二大區十二小區 高針村地價仕出帳」には、牧の池は「池壱ケ所 八町五反六畝十二歩 村持名代 山田蓮憙」と表示され、「村持名代」の肩書きがつけられ、更に明治九年六月の「地引帳」、同年七月の「地租改正地価取調帳」、同年九月の「地位銓評帳」においては牧の池及び本件雑種地が「共有惣代山田蓮憙」名義で記載されており(なお、「地引帳」と「地租改正地価取調帳」の「其有惣代」とは「共有惣代」の誤記であると考えられる)、本件地券においても同様の表示となっている。

(三) ところで、右各文書は地租改正に関する前記諸法令に基づき作成されたものと推認されるのであるから、前記地価帳については町村を単位として土地の持主の申告により地価を調査して作成され、改租担当官により書面による検査を経たうえ、村において土地の丈量を行ない、土地の所有者、地積を記載した地引帳を作成されているし、更に改正地券の場合は改租担当官が現地に赴き照査するなどの手続を経で作成され、そして、これに基づき本件地券が発行されたという経過となる。

従って、村民公知の状況で手続が行われたうえ、本件地券が発行されたということになるから、特別の事情のない限り地券の表示は事実に符合するものということができよう。

3  ところで、原告は本件地券に「共有惣代山田蓮憙」と表示されているが、これは原告が当時の寺社上知令や公有地制度により牧の池が官没されるのを恐れたためにとった方法である旨主張し、石井、喜多村両鑑定も同趣旨の見解であるので、検討する。

(一) まず、明治六年七月の「地価仕出帳」(《証拠省略》)中の「村持名代」の肩書きについて、石井鑑定によれば、この土地の所有者である原告が明治四年一月に公布された寺社上知令の趣旨を誤解して、寺院の土地はすべてこれによって没収されると恐れるあまり、寺院の土地を「村持」名義に仮装したとの見解であるのでこの点についてみることとする。

(1) 上知令の対象としていたのは、前記のとおり寺社の封建所領にかぎられ、百姓としての所持地は没収の対象とされていなかったところ、本件において原告が封建所領としての寺領地を有したことをうかがわせる証拠はないから、明治八年の「廃合寺院跡地並ニ建物処分規則」のような例外にあたる他は、原告について没収されるおそれのある土地はなかったといえるし、また、明治八年七月八日地租改正事務局議定地汲処分仮規則などでは僧侶が自費で開墾した土地は、その個人名義で地券が発行され、官没の対象とされていなかったのであるから、官没の噂があったとしても、それは例外的現象といえる。

(2) また、伊藤鑑定及び福島鑑定によれば、明治維新における廃仏棄釈の騒動は、明治元年の神仏分離令の公布直後の明治二年からおそくとも四年までの間一部地域にあったものの、尾張藩ではこうした動きはなく、近県でも苗木藩のような小藩であったとの見解であり、石井鑑定自身、真宗寺院においては神仏混淆はなく、廃仏棄釈の騒動はあまりなかったとの見解である。

(3) 従って、右のように上知令によって寺院所有地が没収されることを恐れるあまりに「村持」を仮装したとは考えがたく、右石井鑑定の見解は採用できない。

(二) 次に、「共有惣代山田蓮憙」名義について、石井鑑定によれば、公有地の制度が払い下げを前提にしており、村持ちの「所有の確証」のないかぎり、溜池は官没されることになっていたため、原告がその所有していた牧の池について「村持名代」と一度仮装したのを更に原告の所有名義にすることにしたが、寺院の所有を意味する「蓮教寺共有惣代」と表示すると「村持」と仮装したことが発覚するので、「共有惣代山田蓮熹」名義に改めたとの見解であるのでこの点についてみることとする。

(1) すでに検討したように、牧の池はその築造以来高針村一帯の水田を灌漑してきており、しかも築造の際に証文引とされ、領主に対する年貢が免ぜられていたから、前記のとおり明治五年九月四日大蔵省達第一二六号、同年二月一四日地所売買譲渡ニ付地券渡方規則、次いで、明治六年三月二五日太政官布告第一一四号地所名称区別、更にはこれを改めた明治七年一一月七日太政官布告一二〇号及び同日付第一四三号の経過からすると牧の池が官有地に編入されることに対する不安感が生ずることは一般的に考えられるけれども、石井鑑定の右見解は牧の池が原告の所有であることを前提とする推測にすぎず、その前提についての確証のない以上たやすく採用できない。

(2) また石井鑑定によれば前記「共私区別願」(甲第二三号証)の中に「共有地」という表現があることを根拠に明治九、一〇年ころ寺院の財産を住職と檀家(総代)の共有とする思想があり、「持主蓮教寺共有総代」の趣旨で本件地券他前記文書に「共有惣代山田蓮憙」名義が使われていたとの見解である。

しかし、伊藤鑑定によれば、右甲第二三号証でいう「共有」とは「願」を出すにあたって、住職の「私有」と区別して記載した趣旨であって、文書の性質上地券等の記載とは関係がないとの見解であり、しかも、石井鑑定の右見解は当時住職個人の財産と寺有財産とがはっきりと区別されていたことを前提とするが、福島鑑定によれば、浄土真宗のように住職の地位について血脈承継が行われていた宗派においては、住職個人の財産と寺院の寺有財産とが混同しやすく、また、法人概念はなかなか日本において根付かなかったとの見解に対照すると石井鑑定の右見解もたやすく採用できない。

(三) 以上より、原告が上知令や公有地制度による官没をおそれるあまりに「共有惣代山田蓮憙」の名義を仮装したとの石井、喜多村両鑑定の見解は採用できないことになる。

4  そこで、「共有総代山田蓮憙」の意義について検討する。

(一) 壬申地券発行のために作成された「地価仕出帳」においては「村持名代山田蓮憙」とされているが、伊藤鑑定によると、地租改正手続の当初政府は官有地でない共同の利用地である林野、溜池等について私有地として個人に払下げる形をとろうとしたが、多くの農民の反対に会い、公有地という制度をいったん設け、村共同のものについては「村請公有地」としたが、「村持名代」も右村請公有地を示すとの見解であり、本件において牧の池が当時「村請公有地」と扱われたことの証拠はないが、前記地租改正の経過からすると、牧の池が共同利用の実態を有していたから、その具体的状況は明らかでないとしても右「地価仕出帳」に「村持名代」と表示されることは十分その可能性があったと考えられる。なお、鈴木鑑定書によると、「村持」の性格については一村人民の総有と理解し、実在的総合人としての村に帰属するとの説と村の生活協同体としての機能から実際上その土地の収益権利者の支配地(部落総有)との説があることが認められ、そして、牧の池の場合従前「悪泉」という個人所有の部分が含まれている等少くとも前者の実態は有しなかったものと考えられるが、いずれにしても多数の村民の共同利用に供されていたのである。

(二) 次に本件地券及びその発行のために作成された「地引帳」、地租改正地価取調帳」、「地位銓評帳」においては牧の池及び本件雑種地は「共有総代 山田蓮憙」の所有名義となっている。

このように肩書変更がなされたのは、前記のとおり改正地券の発行に際し、村請公有地の制度が廃止され、土地は官有地と民有地に大別され、村請公有地も民有の確証のあるものは民有地とされ、民有の溜池は民有第三種(後に民有第二種)とされることに手続が改正されたことによるものと考えられるが、福島鑑定によると、右肩書変更に関する法令、県指令等の存在は明らかではなく、地方庁の改租担当官の指示に基くものと推測されるとしている。

(三) 福島鑑定、伊藤鑑定、鈴木鑑定書によると、「共有惣代山田蓮憙」とされたのは牧の池が高針村附近の土地の灌漑に利用されていたという利用形態が認められたためであり、また「共有惣代」の肩書きに山田蓮憙の名前が用いられたのは、同人が高針村内において群を抜く大地主であり、また真宗寺院の住職としての社会的地位を有していたためであるとの点で見解が一致している。

前述のとおり地租改正における官民有の区分及び地券の発行はその土地の従前の支配進退の実績に照らし、官民公知の中でその手続が行われたと認められるところ、すでに検討したように牧の池の築造以来、附近の農民らは、自作農と小作農とを問わず、これを共同利用していたことは疑いがなく、そして地租改正当時山田蓮憙が高針村内において大地主で、真宗寺院の住職としての社会的地位を有していたことからすると、右各鑑定、鑑定書の見解は十分な根拠があるということができる。

(四) ところで、「共有総代」における「共有」の観念については、福島鑑定によると、右「共有」は民法でいう持分があり、分割請求権のある「共有」とは異なり、総体として所有し、使用収益する「総有」であるとの見解であるが、他の各鑑定及び鑑定書もこれに反する見解はない。

しかし、右「総有」の構成員の範囲については牧の池の池敷の提供者及び水利の利用者と関連して問題を有するが、本件訴訟における直接の争点ではないからその検討には立入らない。

四  以上の検討は本件雑種地についても牧の池と同一であるが、いずれにしても地租改正に関し、牧の池及び本件雑種地が原告または山田家の単独の所有とする取扱いがなされたことを認めるに足りるということはできない。

そして、原告または山田家が牧の池及び本件雑種地の総有の構成員の一員であるとしても、総有であるとすれば持分はなく、また総有ではなく、或はそれが解体し、民法上の共有となっていたとしてもその持分を具体的に認定するに足りる証拠はない。

第六  以上のとおりいずれの面からの検討によっても原告が牧の池及び本件雑種地の所有権を有することを原因とする原告の請求はいずれも理由がなく、また山田蓮憙が右所有権を有し、これを承継したことを前提とする参加人らの請求もその余の点をみるまでもなく理由がない。なお、本件においては右各所有権が被告らのすべてに属するか否かを判断する必要はないから、この点の検討はしない。

よって、原告及び参加人らの本件各請求をいずれも失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九四条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 林輝 裁判官 松村恒 裁判官小木曽良忠は転任のため署名押印できない。裁判長裁判官 林輝)

〈以下省略〉

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